夏のスクーリング終了

11日間にわたる

長い長い夏のスクーリング週間が終了した。

流石に、毎日のホテル暮らしと、大学への往復で、

消耗が激しい。

コロナに怯えながらの東京滞在は、思い切り気を使うし、

食事ひとつでも、安易にお店には入れない気遣いの連続だ。

今回ほど長くは無いけど、

まだまだスクーリングは続くから、

せめて、コロナ禍だけでも、おさまって欲しいもの。

 

そして、鷹の台キャンパスでの授業はおそらくこれが最後で、

思い切り大学生気分が味わえる場所ではあるけれど、

如何せん遠いよな。

 

今回のスクーリングは、

絵画研究Iとデッサン研究の2科目だったけど、

色々と考えさせられることも多かった。

 

絵画研究は、テンペラ画を学ぶ、というもの、

古典的絵画手法の体験は、とても価値のあるものだし、

通学の生徒は、1年かけて学ぶようなものだろう、

それを6日間に凝縮して体験。

授業内容は、良く考えられているし、スタッフの段取りも素晴らしい、

どんな生徒も無理なく、作品の完成にたどり着けるような

カリキュラムを組んである。

それは、受講者の立場があまりに幅広い、

通信クラスならではのことだろう。

この辺りの配慮は、長年の実績で培ったものなんだろうな。

 

ただな、それ故に、

キット感がめちゃくちゃ強いのも事実で、

もちろん、フルスクラッチなんかやらせたら、

日程は収まらないし、指導にもならんだろう。

そこまでやりたい人は、自分の責任でね、って感じかな。

通信ならではの授業という感じも強くした。

まあ、出来上がった作品は美しく、部屋に飾れるけど。

 

そして、デッサン研究、

こちらは、いつもの私の苦手な先生で、

初めから嫌な予感、

結果も予感通り、

単位足りてるし、受けなきゃ良かったかな。

まあ、大学生活には、そんな場面もあるでしょう、

切り替えよう。

 

美大の先生というのは、

基本的に作家との二足の草鞋なのだけど、

作家という立場に軸足を置きながらも、

生活面では、教職に重きを置かざるを得ないという

ジレンマを抱えてるか。

先生であるくらいだから、もちろん

色々な意味でめちゃくちゃ絵がうまいわけで、

定期的に個展を開いたり、展覧会に出品したり、

活発に活動をされている先生も多かろう、

それでも自身の芸術活動のみで

暮らしていけるアーティストなど、ほんの一握りのはずで、

制作と生活との間で揺れるのが基本か。

 

もちろん、

作品を作り上げる上での葛藤とか、苦悩や、発揮する才能やら、

自分とは比較にならないものだろうけど、

でもな、自分も、悩んで悩んで制作してるわけだし、

立場的には、そう変わりは無いものなのか、

作家としてのこだわりは強烈だろうし、

それを教員という立場で、どこまで押さえつけるかも、

長年やっていれば、消耗してきそうではある。

 

そんな中で、自分は、

ギターも弾く、自転車にも乗る、

ありきたりの生活をしながらも、

好き勝手に絵を描いて、発表の場を持って、

才能とかはね、置き去りにしたままだ。

それって、

無茶か、無謀か、失礼なことなのかな、

そんなことも考えたりするけど、な。